Sangsun Bae
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どんなモチーフでも、それがどこにあっても、誰の作品かわかることがある。この色彩と余白の切り取り方は、その人以外には考えられないということがある。手の癖なのか、空間の切り取り方の癖なのか。癖とはオリジンとスタイルとも言えるが、作品を見て、その人がかたちにあらわになっている作家だなあと、ベ・サンスンに目がとまった。べ・サンスンは韓国の美術大学卒業後、日本の美大で学ぶ若い作家だ。
作品は、白い地に黒々とした火の玉みたいなかたちから立ち上がっていく曲線が特徴で、画布のなかに、かたちの体言止めとでも言うべき様相を見せている。光学的な色彩の氾濫するなかで、画布の白と黒が、視覚の口直しのように作用した。
作品は、キャンバスに墨のドローイング。墨は黒々としている。墨色の無段階の濃淡は時として饒舌なものだが、ベ・サンスンは睨みつけるように意識的に、黒々と使う。墨色のかたちの稜線に、炭色が底光りして影のように添うとき、その淡い影によって、かたちと空間がいきもののように、動的になる。作品はドローイングという呼称より、描画や書画のようにも感じる。だが書画と一線を画すのは、文字にも見えそうな線のかたちを、その際で、図像的緊張に戻すことだ。展示にも彼女の法則がある。単体作品と、キャンバスの対または3連、4連作品を構成して、石庭の石を置くように考察して展示をする。そのこだわりがまるで美術道といった作法への傾きにも思えて、少し重くて苦しい。空間展示は、まだ試行の途中だ。
私はべ・サンスンに、アジア的ナショナリティと凛とした造形を見て、好ましく思ったのだろうか。そんなニュアンスもあったが、ベ・サンスンの線がもっている生命感と、線で思考し、画布で思考していることが、ありありとそこにあることに惹かれた。
近作は、黒いかたちから曲線が立ちあがり、あるいは四方にのびていく。対の作品は、同形の時間のズレを思わせて配置される。じっと見ていると、抽象形のキャラクターが踊っているような、植物の根が摂理に反して上に伸びているような、あるいは、斜めや横に浮遊する変種のくらげのように見えたりする。どれも強い印象を残すのだが、展覧会場で一巡したあとに振り返ったとき、かたちが反転して見えた。組みになっているキャンバスの、隣接部の目地のような空きが入り口となって、そこから黒いモチーフが白いモチーフへと入れ替わってしまった。余白に思われた白い部分が、「主白」になっていた。「主白」とは造語だが、べ・サンスンは、線やかたちの拡大縮小の思索を通して、余白は「主白」でもあると無意識に示していた。無意識力の多いことが、いつ、どんなときでも「その人」があらわになってしまう作品をうみだしてしまう作家なのだろう。
ベさんの作品は墨でキャンバスにドローイングをした平面です。
単体、キャンバスの対、または
3
連、
4
連と組み合わせて展示します。画面では、黒々とした火の玉のようなかたちから数本一組の曲線が出ています。火の玉が画面の底辺にあって線が上方へ伸びているもの、上下両方に伸びているもの、他の火の玉と繋がっているものもあります。それは壁を伝わる液体の痕跡のような、植物の根が自然の摂理に反して上に伸びているような、あるいは斜目や横に浮遊している変種のくらげのようにも見えます。
墨は水墨画のように濃淡の段階であらわすことが多いのですが、ベさんの作品では黒々と使われます。墨色の稜線に、また墨色が影のように添い、その陰影によってかたちと空間が生きもののように動的に映ります。ベさんの作品からは、アジア的な雰囲気と凛とした造形性も連想されるのですが、現在の光学的な色彩の氾濫する中で、モノクロームの画面は視覚の口直しのようにも見えます。
じっと見ていると図と地のかたちが反転して見え、黒いモチーフが白いモチーフへと入れ替わり、余白が主体にも映ります。色彩と余白の切り取り方にこそ、その作家の特色が現われると考えられますが、ベさんの作品は線やかたちの拡大や縮小の思索を通して、余白は主体でもあると無意識に訴えているようです。そこで今展のタイトルは造語で「主白」という言葉を当て嵌めました。
瑞々しいセンスと溢れるパッションに彩られた、動的なモノクロームの世界をご覧下さい。
入澤
ユカ
INAXギャラリーチーフディレクター
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